野田地図『逆鱗』
「忘れたって消えやしない」
観劇以来毎日まいにち、もう4ヶ月間も私の思考力と脆弱なCPUを蝕んでくれるので、もう一滴のしずくとして海に流してしまいたくなりました。身体にこもった熱を放出するように。漢方ください。
※観劇直後にアナログノートに書き殴ったものをそのまま起こしたもので、読みにくさ、テンションの上下、意味不明箇所など多々あります。私にも分からないよ。台詞等はもちろん正確ではありません。
■野田地図『逆鱗』2016年3月11日(金)
東京公演残り3日の金曜日。2時間半並んで、2時間15分の立ち見。へっちゃら。2度目の野田地図。混沌とした流れのなか、散りばめられる破片。一気につきつけられる主題。ともすれば説教くさくなってしまうこのテーマが、生々しく、輝いてみえたのは、野田演出と松たか子の透明感のせいか。
ネタバレは回避していたものの、チラっと見た気がしたその名を、冒頭の「減圧」という言葉、効果音。
「とても日本的でしょー?」というサキモリの台詞以降、私はいつもの阿部サダヲにも、池田成志の全力にも、松たか子のコメディチックな身体の動きにも、笑えなくなってしまった。ただ、人魚=松たか子たちが何を意味するのか、どれが何なのかは分からないまま、一生懸命についていった。野田さんの言葉を聞きこぼすまいとついていった。でも、気がつくと立ちどまってしまっていたり、自分のことを考えてしまったり、やっぱり時々とりのこされてしまうのだった。口惜しい。野田さんのスピードに全身を預けるという快楽に浸れる日は来るんだろうか…
もとい、「この時代はいつなのか、あの時代なのか、いや、スマホを持っている。現代か」「人魚たちは誰の肉を食べているんだ」「松たか子は人魚なのか、人魚じゃないのか」等々、混乱を混乱のままに抱えて迎える真相。
「昔むかしの、昔むかしの、昔むかしのそのまた昔、十年ひと昔と言いますから、あれは今から七十年前…。」
そこからはもう野田さんの描くリアリズム。それまでの“意味のわからない”演出はどこへ行った、戻ってくれ、頼むから、包んでくれと、思ってしまうほどの。
“無責任の体系”。精神論。通じていた、皆が共有していたはずの禁断の暗黙。
サキモリが痛々しく描く。モガリの叫びは回天のなかで響く。海に溶ける。
ストレートなメッセージと演出、役者のエネルギーに二度目の混沌のなかにいた私は、最後に人魚が何と言ったのか、覚えていない。聞いていたのかも分からない。正直、自分の仕事が持ち得る力との格差に絶望したりしていた。
だけど、今はもう新しい目標に変わった。
その日は、部屋に鱗が降り続ける夢をみた。
どうやら、肺には良くないもののようだった。
換気のためにドアを開けた。
ドアの先は、真っ白でみえなかった。
目が覚めた。
おしまい。
今日、『逆鱗』を観に行ったことには何の意味もないし意味を与える気もないけれど、とかく数字で表されがちな事実のなかの「ひとり」を想うことがどれだけ難しいか、どれだけ蔑ろにしているか…というのは普遍的な指摘だし、瞬間的に刺さりました。
— そぼろ (@LieSoboro) 2016年3月11日
野田秀樹の前に屈服する幸せを抱きしめながら。
さよなら、『逆鱗』。