And maddest of all...

さよならの先で、また。

ここのこと

井上ひさしは、言語の本質を「永遠を目ざす継続性」と表現した。
ひとは言葉を、文章をもって時間に対抗してきたのだという。

 

だけどいま、私がtwitterに ー日本にtwitterが定着し始めたのは丁度井上が亡くなった頃だったと思うー 流した言葉はあっという間に手の届かないところへどんぶらこと流れていく。facebookinstagramも、フィードは秒単位で変化する。昨日、誰が何を投稿したのか、よほどじゃない限り覚えていない。半年前の自分のtweetには記憶にないものが多すぎて驚く。確かにログをたどればそこに言葉は残っているけれど、ネット上では言葉の刹那性もまた事実だ。

子どもの頃、神社のお祭りで真っ赤な金魚をすくった。しばらくは飼っていた気がするけれど、親に言われて川に放すことになった。近所のきれいな川、わざわざ上流まで車で行って、穏やかな流れのなかへそっと金魚を放った。その瞬間の記憶はあるのに、そのあと、金魚がどう泳いでいったのか—ゆっくりだったか、素速かったか、右へ泳いだのか、左へ泳いだのか、まっすぐ進んでいったのか—を全く覚えていない。自分の掌から金魚が離れた瞬間、私の記憶は途切れる。

私が言葉を“流す”のはその感覚に近い。掌の金魚は常に視界にはいる。頭に浮かんだ考えは、それがつまらないかそうでないかを問わず、常に脳のどこかを占める。それを川よりも海よりも広いネットに放流することで、別の金魚をすくいに行けるかもしれない。今度は草むらのバッタを両手で捕まえられるかもしれない。ふわふわのゴールデンレトリバーの毛をわしゃわしゃできるかもしれない。誰かの手を握れるかもしれない。

 

そういうことで、ここは、しんどくなったときに来る川岸のような感じのブログです。
And maddest of all...