And maddest of all...

さよならの先で、また。

花言葉

大切にすると決めた途端、掌の中のガラス玉は砕け散った

急上昇する体温を感じながら必死に集めた破片は

当たり前だけどさっきまで撫でていた球体とは違うモノだった

 

透明な欠片を無表情でゴミ箱に投げ入れた私は

ガラス玉よりも眩しい光に包まれた

 

光を反射する涙は

乾いても乾かなくてもいい

 

 

さよなら、花言葉たち

 彼がそれを見ないためにはなんでもするものっていうのは、あるのだろうか。死ではない、孤独ではない、人間関係のトラブルでもない、自分の弱さでもない、追ってくる過去でもない、もう二度と戻らないこども時代でもない、将来への不安でもない、発狂でもない、退屈でもない。きっともはやそういうものはないんだろう。でもきっと彼には、そのようなものがミックスされて突然襲ってきて、いくら冷や汗をかいてのたうちまわっても時間が動いてくれなくて、泣くことも笑うこともできず苦しむあるタイプの夜の経験が、一度ならずあるだろう。

よしもとばなな <解説>なんで癒されたんだろう

菊地成孔『スペインの宇宙食小学館、2009

 

 

頭上にはもう青空がひろがっているのに

桜も降るように散っていったのに

 

 

ここのこと

井上ひさしは、言語の本質を「永遠を目ざす継続性」と表現した。
ひとは言葉を、文章をもって時間に対抗してきたのだという。

 

だけどいま、私がtwitterに ー日本にtwitterが定着し始めたのは丁度井上が亡くなった頃だったと思うー 流した言葉はあっという間に手の届かないところへどんぶらこと流れていく。facebookinstagramも、フィードは秒単位で変化する。昨日、誰が何を投稿したのか、よほどじゃない限り覚えていない。半年前の自分のtweetには記憶にないものが多すぎて驚く。確かにログをたどればそこに言葉は残っているけれど、ネット上では言葉の刹那性もまた事実だ。

子どもの頃、神社のお祭りで真っ赤な金魚をすくった。しばらくは飼っていた気がするけれど、親に言われて川に放すことになった。近所のきれいな川、わざわざ上流まで車で行って、穏やかな流れのなかへそっと金魚を放った。その瞬間の記憶はあるのに、そのあと、金魚がどう泳いでいったのか—ゆっくりだったか、素速かったか、右へ泳いだのか、左へ泳いだのか、まっすぐ進んでいったのか—を全く覚えていない。自分の掌から金魚が離れた瞬間、私の記憶は途切れる。

私が言葉を“流す”のはその感覚に近い。掌の金魚は常に視界にはいる。頭に浮かんだ考えは、それがつまらないかそうでないかを問わず、常に脳のどこかを占める。それを川よりも海よりも広いネットに放流することで、別の金魚をすくいに行けるかもしれない。今度は草むらのバッタを両手で捕まえられるかもしれない。ふわふわのゴールデンレトリバーの毛をわしゃわしゃできるかもしれない。誰かの手を握れるかもしれない。

 

そういうことで、ここは、しんどくなったときに来る川岸のような感じのブログです。
And maddest of all...

野田地図『逆鱗』

「忘れたって消えやしない」 

観劇以来毎日まいにち、もう4ヶ月間も私の思考力と脆弱なCPUを蝕んでくれるので、もう一滴のしずくとして海に流してしまいたくなりました。身体にこもった熱を放出するように。漢方ください。

※観劇直後にアナログノートに書き殴ったものをそのまま起こしたもので、読みにくさ、テンションの上下、意味不明箇所など多々あります。私にも分からないよ。台詞等はもちろん正確ではありません。

 

■野田地図『逆鱗』2016年3月11日(金)

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